ホハレ峠のある岐阜県徳山村はダム建設のため、1987年に廃村されました。そのホハレ峠に一番近い集落に、最後の一人になるまで住んでいたのが廣瀬ゆきえ(1925-2013)さん。徳山村でのかつての生活を通した思いが、彼女への聞き書きで綴られています。
ゆきえさんの集落門入(かどにゅう)はダムに浸水しない危険区域での撤退です。浸かるより更にやるせないとも思います。
旦那さんが亡くなり、まるっきり一人きりになられ、2001年、やむなくゆきえさんも集団移転地へと引っ越します。補償金はみるまになくなり、
「先代が守ってきた財産を、すっかり一代で食いつぶしてしまった。金に変えたら全てが終わりやな。」
とは言っても、実は彼女は、結婚前は他県の紡績工場に就職して都会を楽しんだり、新婚当時は北海道の開拓村で過ごしたりと、生涯徳山村で過ごしていた訳では有りません。なのにどうして、最後の住人になるまで住むのを選んだの?読みすすめながら、途中まで不思議でした。
著者である大西さんもそうであったようです。その謎がふっととけたのが、ゆきえさんのいた集落の家系図を見た時とのこと。
ほぐしきれない蜘蛛の巣のように入り組んでいて、そのほとんどが親戚関係、例えば戸籍上いとこであっても実の兄弟であるなど。子どもがない家は養子を迎えたりなどなど、家ひいては集落が続いていくように、長い間、村の皆で助け合ったのです。血筋だけでなく、本当に困ったときは「頼母子」(貸すのではなくあげる)=集落内でお金を渡し合うなどの風習もあり、ゆきえさん家族も恩恵をこうむったこともありました。
実際、ゆきえさんが北海道に嫁にいったのも、旦那さんの先代が徳山村の出身のため、村の血を守ろうと迎えに来てくれたからだそう。そして、ゆきえさんが30代に徳山村にもどってきたのも、子どものいない母方の実家の血を継ぐためでした。ちなみに徳山村帰省に乗り気だったのは、元々徳山村に住んだ事のない旦那さんの方だったそう。生まれながらにして身にしみついた”徳山村出身”に誇りもって生きていらした。。。と、私なりに理解しましたが、どうでしょうか。
ゆきえさんの話しとは離れますが、ダム建設が決まる直前、つまり道が残っている間に製紙会社が山に入り込み木を次々と伐採していったそうで、これは秘密裏にダム建設が内定ということで入っていったのでは。。。と!未確認情報の様な形で書かれてましたが、怖いなとつくづく思いました。
ぱるきちママは、日本の山間部の昔の暮らしに思いを馳せるのが好き。「ホハレ峠」は昨春発売されたばかりですが、早速図書館で借り、お客さまからおうかがいした話し(「湯原温泉のダムに沈んだ集落」)を思い出しながら読みました。